ベストセラーゲーム作家はゲーム遊びに明け暮れる毎日僕が初めてコンピューターらしきモノに出会ったのは高校生の時で、リコーのリコマックというプログラム式電卓のバカでかいやつだった。もちろんCRTなどもなく、10進の数値計算のみのモノで、それでもユークリッドの互除法などを、同級生とワイワイ言いながらまるでパズルを解くかのようにシミュレートしたのを覚えている。
大学に入ってからはテキサス・インスツルメンツのプログラム電卓(貧乏学生だったのでTI-58)で、実験結果の整理をするのが唯一自分で書くプログラムだった。とはいっても、TIの電卓はソフトがROMで供給されていたから、そでをサブルーチンとして使うような簡単なモノ。だからコンピューターといえばプログラムを書くよりもゲームで遊ぶ方が身近な存在だったといえる。当時はちょうど“パソコン”という名前が世に広がり始めたころで、友人のコモドールPET2001に、本に載っているゲームプログラムを打ち込んで遊んでいた。
そのころはインベーダーゲームがブームで、ビデオゲームも新しい製品がドンドン出ており、僕も当時の大学生のご多分に漏れずゲームセンターに通っていたが、プレイするよりはもっぱら人がやっているのを見て、ゲームのコンセプトやフィーチャーなどをウインドーショッピングする方だった。ゲームの指向もわりとホンモノ指向で、「アタリ」のゲームの大ファンだった。そのアタリからアタリ800というパソコンが出て友人の一人が購入した。ゲームメーカーならではの本格的なゲームソフトで随分徹夜もした。考えてみるとパソコンとの付き合いはもう10年近いのに、いまだにBASICすらできないのだからパソコンには申し訳ない限りだ。
就職するに当たって趣味と実益をかねてゲーム関係に進もうとアタリ社に行こうと考えた。しかし、東京以外の所で暮らすのに自信がなかったので断念し、その日本支社であったアタリジャパンを調べ、その親会社が日本のゲームメーカーで一番好きだったナムコだと知った。ナムコの社長室にはゲームが置いてあって、社長が毎日ゲームをしているという話を聞いて、社長のファンになりナムコに入社。ゲームを楽しむ側から作る側に回った。
ゲームを作るといってもいろいろなセクションがあり、僕はプログラムもハードウェアもできないから企画セクションに配属されるのかと思ったら、なんとソフトウェアのセクション。そでからアセンブラーを覚えた訳で、予備知識もないものだから(アセンブラーという単語すら知らなかった)、習うより慣れろで実際に書いてみて2ヶ月でマスターすることができた。処女作である「ゼビウス」と2作目の「ドルアーガの塔」で、Z-80と6809を使い、以後アセンブラーが言語の中でも一番気に入っている。
「ゼビウス」の仕事が終わってから研究のためにいろいろなパソコンゲームで遊んでみたが、その中で一番燃えたのがアップルIIの「ウィザードリィ」という、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(D&D、ボード式のロールプレイングゲーム)のコンピューター版だった。そのころ読んでいた「E.T.」という映画の原作にこのD&Dが登場し、どんなゲームかと思い、調べたところ、日本では販売されていないうえに英語のマニュアルしかない。概念すら理解できなくて困っていたところに、先輩がウィザードリゥを持ってきた。取っつきにくいゲームだったが、やってみるとD&Dに似ている。そうかこれがロールプレイングゲームなんだ、と刺激されて作ったのが「ドルアーガの塔」。さいわいこれがベストセラーとなり、ゲーム作りに夢中になった私はゲーム作り専門の会社を作った。アイデアはどんどん浮かび、ゲーム作りに夢中の毎日…、のはずが、その後発表されたウィザードリィパート2、パート3が出回ったために、僕はゆっくりウィザードリィをやろうとアップルIIcを入手(初めて所有したパソコン)。家内も引き込んで高価なアップルをウィザードリィ専用機として使う日々を送っている。アップルを買ってからもプログラムは全く書かず、ウィザードリィパート4の出現を待つ毎日だ。
1985/11/18発行 日経マグロウヒル刊「日経パソコン」私とパソコン
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